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2015/01/03 22:18:18
謹賀新年 2015年は、平成27年で、今、京都は大雪である。昭和26年位より雪が多いとの報道。
心体エネルギーなのか、人体的な疲労なのか、ずっと冬眠の様な感覚。
2013年には、とりあえず検査図を作って貰ったので、何か疼痛があると必ず、思い出す。検査は良かったのかも知れない。
あれだけ衝撃があった事故なのだから、手術手術という風にイメージが何となく固定化されていて、まるで保健所に連れて行かれた動物の様な恐怖、歴史の残酷な部分にある様な恐怖の様に思ってしまっていて、疼痛が激痛になっていようと、記憶野に蓄積されている知識や映像の様な物が、あれだけ私の恐怖を増長させてしまって、寝不足になったりしていたのが、自身でやっと分析出来る様になったのも、検査を受ける前迄は、思い出さない様にしていた部分であった。
恐怖の夢の中の様な、変な気分だったので、幾度も何でだろうと知っている筈なのに、私が分からなくなってしまっていたが、歴史の当事者よりは、有り難い事に学ぶ立場だった私なのだった。
拠り所は、段々純粋に濾過されてゆき、山になってしまい、神棚になっていく。
私は何であったかという事になっていき、とうとう、一巡し、漆間時国の遺言に戻って来た私の思考回路である。
高校時分には、漆間時国の遺言を噛み締めながら、過ごして行った。
時代は違うけれども、其れを知らない私なら、今もずっと存在してはいないだろうと思う位、しっかりした信仰心だった。
以前というより、数年間の間に、幾つかの気力の変動が私の中に起こり、年月も地球も廻るから、樹木と同じ様に、変化する人間という様に感受する様な気分。
尊敬していた省の長官とか学者とか、心臓が動かなくなって、年月が此れからも続くのが不思議で、とうとう今日はニュースで牛乳等の類に、発癌性とか危険があらわれたと報道された。
ココナツで作ったミルクを与え、スジャータの様に皆、健康を重んじなさいとの事だろうか。
これらは、学部で習う基礎的な事だから、医療面の学習にも必要なのだろうか。
私は、ココナツで血管を維持して昨年の冬は過ごしていたけれども、色々な体質の人間に全て有効かは調べる事が困難なので、医療知識ある他の有識な方に、訊ねて頂きたい。

2015/06/29 02:09:31
ついこの間は、マレーシア地震、その前は把握出来ていないけれども、小笠原地震の報道が今もある。
昨日は正式な検査の名称を調べて、あれ、どちらだったか分からなくなり、お問い合わせを迷ってしまった。
相手方は把握している筈なので、いつか教えて貰おうと納得した。
目眩があったので、インスタントコーヒー等も水等に変更してみた所、朝、覇気が無いけれども、目眩を伴う頭痛もあった様で(長年、色々な頭痛がするのに、何も記録していない為、どんなにその原因を嫌悪しているのか、思い出せないけれども、良く分かった。)少し、楽な感じである。
水等や暖かい野菜スープにしてみると、「あ、此処で目眩が起きそうな頭痛みたい。」と感じても、何だか軽い感じで楽だった。
ほぼ2015年で、10年前になるが「激痛の耳痛を伴う頭痛(なんかやばい病気に似ている。)」で、転げまわっていたので、注意をしないといけない。
頭痛は血管が詰まってしまっていそうな感じもしたりするので、ココナツだと何とか乗り切れる。
自炊は鍋物は、した事が無いし、野菜スープと言っても「面倒だから、カレーにした方が楽」だったけれども、頭痛やらにはカレーライスはきつそう。
賀茂鶴とか料理酒を使う料理は、きつそう、チョコレートとかきつそうと何となく分かって来た。

2015/09/17 5:06:30
ニュース報道等の解説の物が多くなって来て、現在、TwitterがOpenなイメージだと、LINEは閉鎖されたイメージか、その反対なのか、3年前には未だ流行って無かったと思う閉鎖型の物が、多く見つけられる。
自動更新が便利な機能として、生活の一部となっているのだろうか、私はLINEはしていないので、その利便性等は、少し分からない。
災害で助かった例があるのか、そういう物の利便性を見つけているのか。
Facebookも退会した現在、本当の人間関係なのか否かの見極めが少し困難ではないだろうか。
私自身も、数式を使って、考えの混乱は表現出来そうだと7年前から少しずつ、思っている。
「A」→「A=not」→「not or A」→「Do not」…という数式では無さそうな数式風の文章になっていくのだった。
数式という物に、バリエーションが無い為、英語の方が伝わるのか(過去の私から未来の私へ、という私自身の疼痛の為の記憶野的な伝言およびメモにしかならないが。)?
そういった数式風の文章が、ふと思い出すと『風立ちぬ』からだった。
中学頃に読んだ物なのだけれども、好きだから思い出すのかというと、全くといっても良い位の好きでは無い物なのだ、けれども、その作品の中にある一瞬が、懐かしいのだった。
思い出という表現は、執念のある恨みの様な感情を内包している言葉なのだ。
じゃあ、話という表現に変換したら、というとその表現では、内包された感情等を表現出来ない「一見、他人事の様な」空々しさ。
の事、という表現だったら、どうかというと、その言葉なら、前者も後者も同じ線の上にイメージ出来ると私は思った。
古文でも、の事也等とあり、私という最近発生した人間には、古文で現存している作品の言葉という言葉選びに、今、感嘆してしまうのだ。
『風立ちぬ』の内容がどうとか、詳細はこんな風で、之はどうとか、そういう読み方を1通りした後、数年経過すると、学問的か感情的か、どちらかの読み方になってしまうのだろうか。
私が今は、その限定された読み方で読むしか無い場合なのだろう、人生観が、憧れが云々と、大人は読みたがる様な、賢さを求めすぎて、人間的な物をイメージ出来なくなってしまうのだろうか、否。
『風立ちぬ』の作者が、どうとか、私は何故だか、良く分からない気持ちの時、8月が来れば、色んな過去の私の事について考える事は無いのに、再確認なのか、何度も、時計は止まってしまうし、何度も何度も思い出して、思い出して、考えなくっても記憶野は思い出してしまうのだ。
『風立ちぬ』の後、永井隆も少しは読んだし、その後、何を読んだかは記憶に無いのに、8月が来ると数年前から、覚悟しなければならないのだ。
この頃は、時々読もうと読むテキストになった作品は大体、昔読んだじゃないか、という物が5%あった。
作品を名前では思い出せない。


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